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光市母子殺害事件の差戻控訴審に関する放送についての意見(抄4

Ⅶ おわりに
「巨大なる凡庸」――とは、7時間半におよぶ本件放送を見終わったあとの委員会の席上で、ある委員が口にした感想である。
巨大とは、テレビそのもののことである。大事件をめぐって、何十人、何百人という取材陣と番組制作スタッフがどっと動き、いっせいに同じことを伝える。ごった返す取材現場と時間に追われる制作現場から送り出された映像と音と言葉は、たちまち家々のテレビ画面に、個々人の携帯端末にあふれかえる。テレビはまず、規模が巨大である。
だが、光市母子殺害事件の差戻控訴審を伝えた数々の番組は、そうであるだけではなかった。ほぼすべての番組が、「被告・弁護団」対「被害者遺族」という対立構図を描き、前者の荒唐無稽と異様さに反発し、後者に共感する内容だったことはすでに指摘したとおりだが、反発と共感のどちらを語るときも、感情的だった。感情的ということのなかには、その口調や身振りが感情的だったということもある
が、もうひとつには、刑事裁判という法律の世界の出来事を、普通の人間の実感レベルだけで捉え、反応しているという意味もある。刑事裁判の仕組みなどそっちのけで弁護団に反発したり、文脈や証拠価値のちがいも区別しないまま、被告の法廷での供述と、精神鑑定の際の言葉をいっしょくたに非難したり、などというのは、その一例だった。
もちろん実感は、大切なものである。季節感、生活感、現実感をなくしたら、人生の意味は半減してしまうかもしれない。しかし、他方で私たちは、自分の好き嫌いを押し通したり、気に食わない、やられたらやり返せ、などと実感のおもむくままにやっていったら、わが身の暮らし、地域や世の中、そこらじゅうが大変なことになることも、少しは知っておいたほうがよい。
凡庸は、こうした大切でもあれば、危うくもある、実感の過剰を指している。被告の供述や精神鑑定の場で語ったとされることは、それだけを取り出せば、奇異で異様な言葉である。そのことは実感のレベル、常識のレベルで考えれば、誰でもわかる。
しかし、本件放送は大人数で、大がかりな番組制作をしながら、そこで止まっている。テレビはその規模の大きさゆえに、多くの視聴者の実感レベルでの反応を引き起こしただろうが、両方が巨大なる凡庸のままで終わっていて、その先がない。この状況を作り出したのは、まずテレビである。その番組の作り方だった。
公正性・正確性・公平性の原則を十分に満たさない番組は、視聴者の事実理解や認識、思考や行動にもストレートに影響する。一方的で感情的な放送は、広範な視聴者の知る権利に応えることはできず、視聴者の不利益になる、ということである。番組制作者は目の前の事象に反応するだけでなく、種々さまざまな視聴者がそれぞれ何を求めているかについても、考えをめぐらせる必要がある。
裁判員制度の導入が目前に迫っている。一般市民が裁判員となり、裁判官といっしょに刑事事件被告の有罪無罪や量刑を決めることになる。制度導入は「裁判を身近で、わかりやすいものにするため」とされているが、少なくともそれは、好き嫌いや、やられたらやり返せ式の実感を裁判に持ち込むことではないはずである。それでは、法以前の状態への逆戻りである。だが、テレビはいま、そうしたゆきすぎた実感の側に人々を誘い込んでいないだろうか。
法治とは何であるか、刑事裁判の構造的原理は何か、なぜ裁判では犯行事実がわかっているのに、被告の生育歴を調べたり、精神鑑定までするのか、法はどうして成人と少年を区別しているのか、被害者とその家族や遺族の無念の思いは、どうすれば軽減・救済できるだろうか――司法をめぐるひとつひとつの問いのうしろに、法律によって苦しみ、法律によって救われた人間たちの歴史がある。まだ答の見つからない問いの前で、いまも苦しんでいる人間がいる。
事件・犯罪・裁判を取材し、番組を制作する放送人たちが、テレビの凡庸さに居直るのではなく、これらのことに思いを馳せ、いま立ち止まっているところから少しでも先へと進み出ることを、委員会は希望する。

(Source: bpo.gr.jp)