23rd
光市母子殺害事件の差戻控訴審に関する放送についての意見
例えば、ある番組の司会者は、被告・弁護団がこれまで事実として認定されてきた犯行態様を否定し、別様の要因からなる傷害致死を主張したことに対し、「命乞いのシナリオ」と呼び、「万が一にもこのような主張が採用されることはないと思うんですが、その万が一がもしあったとしたら、もう世も末と言わざるを得なくなってしまうということなんですね」と言う。
この番組は、その「命乞いのシナリオ」がどのような文脈や根拠から出てきているのかを掘り下げていないため、被告の奇異な発言だけが浮き彫りにされ、法廷審理で何が争われているのか、視聴者にはわからない構成になっている。
……
別の放送局の番組では、やはり司会者が「『ドラえもんが何とかしてくれる』って、笑わせるんじゃないよって言いたくなるよな」「女性をね、殺して、ねっ、暴行する。それは何のために? 『殺した女性を復活させるため』。そんなもん、世の中で通用するわけないでしょ」と、あきれ顔で言っている。
この番組にも、被告の、一見荒唐無稽にしか思えない発言の真意が何であるかについての取材や解説がない。犯罪は被告の内にある何らかの荒唐無稽、異常、異様、破綻、失調等々がなければ起きなかったはずだから、そのよって来たるところを探ることこそがメディアの仕事であろう。しかし、ここにはその取り組みがないまま、片言をとらえただけの表面的な断定しかない。
……
某局のある番組は「光市母子殺害で大弁護団21人集結の『目的』」というテロップのあとで、暗い照明で浮かび上がらせた弁護団一人ひとりの顔写真を映し出し、その後、被害者遺族が「(彼らは)被告人を救おうということよりも、救うことが手段であって、目的は死刑制度廃止ということを社会に訴えること」と語るシーンをつなげ、それを引き取った司会者が「この21人の弁護団のそもそもの目的というのが、はっきり浮かび上がってきたなあ、という感じがいたします」とつづける。
これも「弁護団」対「被害者遺族」という対立構図を描いた番組のひとつである。たしかに弁護団のなかには死刑制度廃止を訴えてきた弁護士も何人かいるようだが、それ自体は思想信条の自由に属す事柄である。しかも、死刑制度廃止論はこの差戻控訴審の争点にもなっていないし、彼らがその主張を法廷で述べた形跡もない。番組制作者がそれでも死刑制度廃止論者が弁護人になったこと自体が重要テーマだと考えるなら、きちんとした取材に基づいて、それが批判するに値する事柄であるという理由を示す必要がある。それがないままに、被害者遺族の意見を引用・紹介し、そこに同調するだけで終わっている。
……
また、別の局の別の番組では、被告が精神鑑定の際に「(被害者の主婦)はまだ生きている」「僕は死刑になってもいい。先に来世で会えるので、再会したときは、先に自分が夫になる」などと語ったとされる言葉をイラストと声優の声で再現した。これを受けたゲストが「被告がね、明らかにこういうことを法廷でもし言ったとしたら、これ、遺族を侮辱する発言じゃないですか」「ほんとうに遺族にとって申し訳ないと思い
ますよね、こういう発言、法廷でされるということは」とコメントしている。
これも被告の奇異な主張やふるまいを批判的に紹介した番組だが、コメンテーターは勘違いしたのか、法廷での発言であることを前提として、自説を述べ、批判している。司会者は訂正したり、補ったりもしていない。精神鑑定の際の発言は、それを基に鑑定人がどう判断したかこそがポイントだが、鑑定結果に関する紹介はない。批判はむろん自由であるが、番組はコメンテーターの憤懣を見せるだけで、その奇異さをもたらしたものが何であるかについて、冷静に考察しようとする姿勢を見せないまま終わっている。
*
番組が、あるいは番組制作者がみずからの見方や考えを強く打ち出した内容を放送することは、言論表現機関として当然のことであり、それ自体としては、民主主義を支える多様・多彩な情報提供や表現として、積極的に肯定されるべきである。しかし、そのためには、前に述べた「放送倫理基本綱領」をはじめとするガイドラインや基準が掲げる公正性・正確性・公平性の原則に即し、十分な調査や取材に裏付
けられた根拠があることが前提である。とくに立場のちがう関係者が相争う刑事裁判のような場合には、現代の司法制度に関する基本的知識をきちんと踏まえ、双方の言い分とその狙いをていねいに取材・調査することが不可欠である。
また、視聴者にわかりやすく伝える手法のひとつとして、裁判の過程で垣間見える人間ドラマにスポットを当て、種々の演出を凝らして番組を作ることは十分にありうることだが、その場合でも、加害者・被害者双方の人間像に深く届く洞察がなければ、薄っぺらな勧善懲悪モノに陥り、この裁判の意義と意味を見失わせ、かえって視聴者に誤解を与えるものになってしまう。
先に、委員会が「(本件放送は)被告・弁護団が提示した事実と主張に強く反発・批判した内容となっていた」と、あえて「反発」という言葉を使ったのは、番組の多くがきわめて「感情的」に制作されていた、という印象をぬぐえないからである。冷静さを欠き、感情のおもむくままに制作される番組は、公正性・正確性・公平性の原則からあっという間に逸脱していく。それはまた、民主主義の根幹をなす、公正な裁判の実現に害を与えるだけでなく、視聴者・市民の知る権利を大きく阻害するものとなる。
委員会が憂慮するのは、この差戻控訴審の裁判中、同じような傾向の番組が、放送局も番組も制作スタッフもちがうのに、いっせいに放送されたという事実である。取材や言論表現の自由が、多様・多彩な放送に結びつくのではなく、同工異曲の内容に陥っていくのは、なぜなのか。
そこにはかつての「集団的過熱取材」に見られたような、その場の勢いで、感情的に反応するだけの性急さがなかったかどうか。他局でやっているから自局でもやる、さらに輪をかけて大袈裟にやる、という「集団的過剰同調番組」ともいうべき傾向がなかっただろうか。こうした番組作りが何の検証や自省もされないまま、安易な「テレビ的表現」として定着してしまうことを、委員会は憂慮している。
こうした問題意識から、委員会はとくに次の2点を念頭に置いて、あらためて上に掲げた番組を視聴するとともに、各局に対する概括的アンケートと、番組制作者から
の聴き取り調査を行い、公正性・正確性・公平性の観点から、検証を進めることにした。
(1)番組制作者は、刑事裁判の仕組みをどの程度理解していたか
(2)番組制作者は、本件差戻控訴審を「人間ドラマ」として取り扱う場合でも、適切な取材・演出・表現をしたか
(Source: bpo.gr.jp)